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「差別化」なる概念と表現が、定着しつつあることへの懸念です。
先週だったでしょうか、夕刻に放映されたNHK鳥取テレビのローカルニュース。
そこから流れてきたひとつの表現に、思わず立ち止まりました。正直に言えば、ふたつの思い、ひとつには「この言葉が、ついに、ここまで市民権を得てしまったのか」という気持ちと、ふたつには、この表現と出合う都度の戸惑い「また、私だけが過敏に反応してしまったのかもしれない」という気持ちです。
当該ニュースの内容については、極めて不正確な記憶ですが、確か、鳥取県と韓国との(観光)交流の取り組みに関する報道。日本から韓国への観光客の増加に対して、韓国からの観光客は減少している旨の報道。鳥取県知事へのインタビューが併せて伝えられました。これも不確ですが、その中で、知事は「こうした経済状況ではあるが、この取り組みを継続していくことで韓国との交流が実を結ぶと思っています。・・他県との差別化を図ることにつながる・・・」と答えておられたと記憶しています。
昨年にも、NHKテレビ放映で、地域特産品(製品?、技術?)を紹介する番組で、アナウンサーが繰り返し「差別化を図る」「差別化商品」と表現していました。
さらに一昨年だったでしょうか、地元小学校のPTA対象の人権教育講演会で、講演者である大学教授がお話の後半部分で、ご自身の大学のPRをプレゼンテーションされた際に、独自法人化による生徒集めの苦労があることを語られる中で、「わが校では、こうして他の大学との差別化を図ることで・・・」と語られました。その際には、講師ご自身が「いや、区別・・・」と言い替えられましたが、おそらく彼等の現場では、当たり前の表現として使用されていることを実感しました。これまでにも、私には何度かの「差別・・・」との出合いがあります。はじめて出合ったのは、確か20年ほど前、コンピュータメーカーであるF社のディーラー、代理店等の販売会社、協力会社に向けた販売戦略資料でのこと。そして今。
こう提起しながらも、これまでの時間の経過の中で、指摘する事例が多くなってきた現実を考えれば、ある意味で、当然の市民権を得ていると考えるべきなのでしょうか。
「私の過敏は反応」が、多少の不快感と吐き気を伴うものであっても、それは「私だけが過敏に反応・・・」しているのでしょうか。
差別とは?:新修部落問題事典から(概略)
「本来平等であるべきものを不平等に取り扱うことを言う。差別は、所属している集団や社会カテゴリーに基いて行われることが多い。行為的レベル、態度レベル、意識レベル、文化・イデオロギーレベル、制度レベルに分けられる。」とあります。
私は、これに排除を加えます。
・・・・であるとすれば「差別」で表現される、行為、態度、意識、文化・イデオロギー、制度は私たちの社会では否定されるべきものではないのでしょうか。差別をするな、差別はいやだ、差別はいけない、差別をしない、差別をなくそう、私たちの願い。
しかし、今日的にはこうした経済、企業活動において、いや社会活動全般においても、差別化、差別化戦略、差別化商品等々、「差別」が、肯定的な意味を持って使用され始めています。「差別化」と括らなくても、「他社より優秀な商品」「他社より有効な企業戦略」「他大学にはない学科、施設」「他の○○には見られない立地、環境」と言い換えることは可能なはずです。言い換えることなく使用されてきた現実を考えると、これが「はやり言葉」として、社会全般に流通する懸念すらあります。
私には解放教育、同和教育、人権教育という言葉へのこだわりに重なります。
「差別化」という言葉へのこだわりもあります。;
ひとつの言葉が概念を変えて社会に流通して定着しまうことへの戸惑いがあります。
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