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こんにちは、みなさん。
このところ、いろいろとお話をしたいこともたくさんあったのですが、そんな時ほど忙しくて発信がおろそかになります。JJさんとドラゴンさんのお話を、興味深く読んでいました
民主主義、国家と国民の現実の位置と関係性、私たちの意識としての権利と義務、国を守ること、そこに生きること・・・・、いずれもずしりと重さと熱が伝わってきました。何よりも、おふたりがお互いを尊重しながら、語られている心地よさもあります。(意見が同じという意味ではなく)
そんな中でのわたしの気持ちです。
申し訳ないぐらいに単純な考えです。
何ごとにも、いつも迷いがちになる私は、だからこそ、軸足を自分の生活実感と感情において、そこから出発して考えています。生活実感と感情とは、毎日の生活の営みであり、そこで育まれていく命や存在への思いや共感であり、私の喜び、悲しみ、怒りであり、私の周囲の大切な人々のそれでもあります。
地域のごく普通のおっさんの生活、おっさんが抱く感情そのものであり、その枠を出ることも、その術も知りません。
そこから民主主義や国家を考えています。
現実の厳しさはそれとして、私の生活実感の意識の中では「わたし」や「わたしたち」は、日本人という括りではありませんし、国民という括りに対しても同様です。
国家は、そんな「わたし」や「わたしたち」のためのものだと考えています。
そんな私の生活の中で、地域を、社会を、国というものを捉えていきたいと考えています。
戦争、原爆投下の是非、わたしにとっては、それによってたくさんの命が失われたという史実、現実、連想できる感情以外のものではありません。
親しい命が失われるということが日常生活の「わたし」や「わたしたち」にとって、どんな意味を持つのか、それが納得がいかないものであれば、どうなのか、そんな価値観しか持っていません。
私が直面する部落問題、最近、ツレとして私の中で大きな存在となってきたハンセン病と関わる人権問題、在日コリアンの人権問題、これも、「わたし」や「わたしたち」として向き合うことしか思い浮かびません。「わたし」や「わたしたち」の中で、排除するとは、される関係性がある、とはどういうことなのか・・・・・。
「美しい日本」、そうでなくとも私のとっては大切な場所には違いはありません。
「意見を通す声の大きさ、圧力」の是非については、何を伝えるのか、何を要求するのかということが大切だと思っています。声を出すことの大切さも、声を出せないことへの配慮、どちらもが大切だと思っています。何よりも、大きな力によって人々が分断されようとしている今、政治家、マスメディアの言葉ではなく、わたしたが声を併せて生きる、手を携えて生きる、生活者としての実感を大切にしたいと考えています。
自分に出来ることがきっとあるはず、自分にしか出来ないこともあるはず。
本筋をはずすのが私の得意技です。
ごめんなさい。
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